◆第1期無牧時代
1960年代、戦後戦争責任を感じた日本の教会の中で、札幌では聖書的な福音主義に立つ教会は数少ない存在だった。メッセージの中心は政治的、社会的関心に向けられ、戦争の悔い改めと告白、靖国反対、安保批判、平和問題、そしてクリスチャンは、街頭デモや断食闘争にまで参加を要求され信仰生活とは程遠い日常であった。
当時美園から10人余の信徒がT教会に在薄していた。お互いに自らの人生に様々な重荷を負いながら苦しんでいる者にとって、こうした状態の中で、信仰とは一体何だろうと、日々悩みと懐疑の中に落ちこむばかりであった。そうした中で与えられた信仰の証しも個人的な感情と、顧みられず、この教会にいる場所はなく、S姉も役員を辞任し、10人余りの姉妹方と教会を離れねばならなかった。群は、一応S兄の所属するナザレンに折々巡回伝道をされていた、キリスト教文書伝道会の森渓川牧師のご指導をいただくことになりS兄宅を集会所とし、信仰生活を始めたのである。沢村五郎師のご友人でもあり関西の塩屋聖会の恵みも取り次いでいただいたが、昭和36年森師に、この群は単立教会としても充分いけると助言をいただき、1月6日世話人会を開き、22日の礼拝から単立札幌美園教会として、子供たちの教会学校と共にスタートしたのであった。
昭和37年東京で開かれたボブ・ピアス師の東京クリスチャンクルセードに出席したS姉は、萩窪栄光教会の目ざましい働きを通して、日本イエス・キリスト教団を知った。帰札後すぐバックストン記念霊交会の落田健二師に札幌の群の事情をのべ、しかるべき教団を希望している事を書き送ったところ、当時の委員長、道城重太郎師の知るところとなった。やがて関東北教区長の森山諭師の札幌派遣となり群の霊状打診ともいうべき現地調査となった。さらに森山師の再度の来札で、美園では毎日のように、昼は婦人の聖研、夜は特伝が開かれた。今まで聞いた事のないメッセージ、預言書から始まり、神の子の誕生、そのご生涯、苦難と十字架、復活、ご昇天、ペンテコステ、再臨に至る壮大な神のご経綸を、目のさめるような思いで一同海綿が水を吸うように伺ったことであった。群は短期間に再臨を待望するまでに信仰を引上げていただいた。またバックストン師による第2の転機、聖化の必要と臨在信仰、内住のキリスト、十字架による自我の磔殺等々、聞いた事のない聖書の深いメッセージに一同は深い満足をおぼえた。同時に信仰の本質にふれて、この流れにみちびかれたことを感謝した。
この後昭和38年7月まで2カ月に1度お出でいただいた。エステル会(婦人会)は週に2度べんとう持参の聖研と証し会をもち、祈り会その他の集会は罪の許しの十字架、血潮とその価値についての霊的考察が繰り返し学ばされたのである。ある時、森山師のテープのメッセージで祈り会を持った時、一人の方の赤裸々な罪の告白に聖霊が働かれて次々と真実な告白がなされ、何人かの方に救いの機会が与えられたこともあった。主は純心な魂の叫びに答えてくださることを見ることができたのである。初期にご協力いただいた森渓川師、独立教会のT兄姉には所属すべき教団にみちびかれたことを告げて感謝をもってお別れをした。
昭和38年7月7日、道城師の来札をまって、日本イエス・キリスト教団の入団式を行ったが、北海道への進出は教団としても懸案の祈りだったと伺い、主の摂理であった事を喜び合い、感謝した。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救ってくださった。
主はまっすぐな道に彼らを導き人の住む町に向かわせてくださった。
(詩編107篇6節~7節)
◆第1代牧師 小島師時代
昭和39年は美園教会にとって記念すべき年となった。春まだ寒い4月、神戸垂水教会から小島十二師を初代牧師として迎えたのである。「日本イエスの霊の流れの中に加わりたい」……昭和38年5月の東京クルセードにおける日本イエス・キリスト教団との摂理的な出合いは、S姉を通して美園の群れに与えられた主の大いなる恵みであった。1年後(38年7月)日本イエス・キリスト教団に加えられ、そしてこの春、待つこと久しい初代牧師を迎えるに至ったのである。
S兄姉宅の家庭集会(30年ごろ)から起こされ、出エジプト時代、無牧の民として、霊的流浪の中を通された、美園の群れにとって、その喜びは、筆舌に斥し難いものがあったのである。
小島師ご一家は、元ラーメン屋を改築しに教会堂に住まわれることになった。8畳2間を礼拝堂とし、それに6畳と4畳半という手狭な建物であった。教会用地が低く、雨が降るたびに水に浸り、その都度かけつた信徒と共に排水作業をされたのである。
小島師時代は3年間と短い期間ではあるが、教会形成期と言われ、教会としての基盤と体制を着々と築き上げて行く時期であり、系統だったみことばの学びと、基本集会によって群れは養われてゆくのである。
小島師は、着任されるとすぐに早天祈祷会を始め、また借家であった旧美園教会堂取得のための祈りも礼拝後集中してもたれるようになった。4月に小豆師を迎えて開催した聖会は、年に一度開催するに至った。美園聖会の始まりである。翌40年は道城師を、また41年は婦人局長の山田晴枝師を迎えて開催している。
また、40年2月には、北海道ケズィックコンベンションの第一回開催に協力し、当教会から多数の参加者を定山渓に送っている。
昭和41年5月に開催された「第一回礼幌福音クルセード」は特筆すべきものである。これは、誕生して間もない美園教会がイニシアチブを取って市内教会に呼びかけ、北海道最初の福音クルセード (本田弘慈師)を札幌に誘致したのである。約50の教会がひとつになって共に戦ったこの本田クルセードは、5日間、市民会舘に満員の会衆を集めて、大勝利のうちに終了した。
小島師はこの間、市内教会、牧師間の連絡を密にし、超教派的な交わりを深め、その結果、福音派教会の牧師霊交会である札幌朝食祈祷会が発足したのである。
同じ5月、借家であった美園教会の土地家屋の購入を決め、予約献金を開始して、3カ月後の8月には、購入代金を完納したのである。小島師着任後すぐに始められた会堂取得のための祈りは、2年3カ月の歳月を経て、すばらしい実りを刈り入れることになった。″祈りは必ず成就する″、祈りの人であった小島師は、その確信を群れに残して、昭和42年3月、芦屋川教会へ転任されることになった。そして再び神戸垂水教会から鍋島猛師を二代目牧師として迎えたのである。主の恵みを集めて、群れは大きく成長してゆくのであった。
教会の歴史は、群れの祈りが、叶えられていく歴史でもあった。その恵みの足跡の先頭には、常に主の足跡があった。教会史をひもとく時、恵みの足跡は私たちに語りかける。″主に感謝せよ、主は恵み深く、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない″と。
◆第2代牧師 鍋島師時代
北国札幌の早春はまだあちこちに薄黒い雪が残り、風は身をさすように冷たい。
昭和42年3月末、札幌美園教会2代目牧師であられた鍋島猛先生ご夫妻は、生後7カ月のご長男さんを伴って、札幌駅に降り立たれたと聞く。先生28歳、奥様26歳の若さであった。
着任当時は、かのラーメン屋あとの会堂であり、初代小島十二先生に次いでここに住まわれ、実に3年半牧会伝道に日夜励まれた。八畳二間の礼拝堂、六畳と四畳半、それに小さな台所、これが旧美園教会の教会堂であり、牧師舘であった。『村の小さき教会』聖歌340番が私たちの愛唱歌であり、時あるごとに賛美されていた。
その年の7月、教会堂土地家屋の保存登記が完了し、名実共に教会の資産となった。12月に教会墓地として財団法人みすまい霊丘公園が管理運営する『みすまい霊園』の永久使用権の購入が役員会で決議され、翌年支払完了されて今日に至っている。
また9月には祈りの中に清田CS分校が開校され、拓住会舘の2階集会室を無償で借りて、聖日の子供集会が行われるようになり、これが清田開拓伝道の始まりであった。毎週主日の午後先生はCS奉仕者を伴って出かけられた。 昭和43年夏、当時積極的伝道の拠点として、S姉宅において持たれていた平岸地区家庭集会には多くの人々が集まり、鍋島師は青年牧師と慕われていた。美園の隣接地平岸は、美園教会まで徒歩15分位の距離にあって、りんご園や田んぼが造成された新興住宅地であった。この地で多くの人が家庭集会から教会へと導かれ、子供たちもCSに通うようになった。神の摂理のうちにみ業は進められ後年この地から、2人の献身者が輩出された。
美園教会はそのころ、八畳二間の礼拝堂は5・60名の人で身動きのできない状態であったが、熱気に溢れ恵まれた礼拝がささげられていた。車座になって行われた祈祷会も常時十五名位の教会員が集い、みことばに耳を傾け熱心な祈りを神にささげていた。(使12・5)その中にまだ高校生だった2人の姉妹の姿があった。この姉妹方は30年後の今日も婦人会の中心となって活躍し、CS教師としての奉仕にも励んでおられる。土曜日の早天祈祷会も格別恵まれていた。 昭和44年ころ、新会堂建設の機運が急速に高まり、4月会堂建築献金が開始され、9月には黒磯教会のH兄による新会堂青写真も作成された。 昭和45年5月からいよいよ新会堂建築のため、美園1条3丁目東工学校の教室を借用して、礼拝することになり、先生ご一家もその近くに転居された。工事は美松建設工業㈱が請負った。
8月に新会堂が完成し9月18日教団委員長長島幸雄師をお迎えして、献堂式に先立って記念持伝が開かれた。まだ若かったエステル会が白いブラウスに黒いスカートのお揃いの服装で聖歌536番を喜びのうちに賛美したのを、忘れることができない。続いて9月20日、長島委員長、森山諭師、小島十二師と、さらに市内各教会からもご参加をいただき、感謝のうちに献堂記念礼拝を主のみ前におささげすることができた。
新会堂献堂を機に9月27日の聖日から伝道夕拝を開始する。各会が過ごとに担当し、求道者のお導きと共に、教会員の良き交わりの時ともなった。また、名物の昼食うどん食堂の始まったのもこのころである。北国札幌の早春はまだあちこちに薄黒い雪が残り、風は身をさすように冷たい。
昭和42年3月末、札幌美園教会2代目牧師であられた鍋島猛先生ご夫妻は、生後7カ月のご長男さんを伴って、札幌駅に降り立たれたと聞く。先生28歳、奥様26歳の若さであった。
着任当時は、かのラーメン屋あとの会堂であり、初代小島十二先生に次いでここに住まわれ、実に3年半牧会伝道に日夜励まれた。八畳二間の礼拝堂、六畳と四畳半、それに小さな台所、これが旧美園教会の教会堂であり、牧師舘であった。『村の小さき教会』聖歌340番が私たちの愛唱歌であり、時あるごとに賛美されていた。
その年の7月、教会堂土地家屋の保存登記が完了し、名実共に教会の資産となった。12月に教会墓地として財団法人みすまい霊丘公園が管理運営する『みすまい霊園』の永久使用権の購入が役員会で決議され、翌年支払完了されて今日に至っている。
また9月には祈りの中に清田CS分校が開校され、拓住会舘の2階集会室を無償で借りて、聖日の子供集会が行われるようになり、これが清田開拓伝道の始まりであった。毎週主日の午後先生はCS奉仕者を伴って出かけられた。 昭和43年夏、当時積極的伝道の拠点として、S姉宅において持たれていた平岸地区家庭集会には多くの人々が集まり、鍋島師は青年牧師と慕われていた。美園の隣接地平岸は、美園教会まで徒歩15分位の距離にあって、りんご園や田んぼが造成された新興住宅地であった。この地で多くの人が家庭集会から教会へと導かれ、子供たちもCSに通うようになった。神の摂理のうちにみ業は進められ後年この地から、2人の献身者が輩出された。
美園教会はそのころ、八畳二間の礼拝堂は5・60名の人で身動きのできない状態であったが、熱気に溢れ恵まれた礼拝がささげられていた。車座になって行われた祈祷会も常時十五名位の教会員が集い、みことばに耳を傾け熱心な祈りを神にささげていた。(使12・5)その中にまだ高校生だった2人の姉妹の姿があった。この姉妹方は30年後の今日も婦人会の中心となって活躍し、CS教師としての奉仕にも励んでおられる。土曜日の早天祈祷会も格別恵まれていた。
昭和44年ころ、新会堂建設の機運が急速に高まり、4月会堂建築献金が開始され、9月には黒磯教会のH兄による新会堂青写真も作成された。
昭和45年5月からいよいよ新会堂建築のため、美園1条3丁目東工学校の教室を借用して、礼拝することになり、先生ご一家もその近くに転居された。工事は美松建設工業㈱が請負った。
8月に新会堂が完成し9月18日教団委員長長島幸雄師をお迎えして、献堂式に先立って記念持伝が開かれた。まだ若かったエステル会が白いブラウスに黒いスカートのお揃いの服装で聖歌536番を喜びのうちに賛美したのを、忘れることができない。続いて9月20日、長島委員長、森山諭師、小島十二師と、さらに市内各教会からもご参加をいただき、感謝のうちに献堂記念礼拝を主のみ前におささげすることができた。
新会堂献堂を機に9月27日の聖日から伝道夕拝を開始する。各会が過ごとに担当し、求道者のお導きと共に、教会員の良き交わりの時ともなった。また、名物の昼食うどん食堂の始まったのもこのころである。
新会堂は2階が礼拝堂、一階が十畳の和室二間続きで、祈祷会、早天祈祷会が行われ、また、後には母子礼拝室となってテレビで礼拝をささげるようになった。
牧師館は会堂1階の奥に続いてあり、先生ご一家も少しゆとりを感じておられたと思う。旧会堂時代生まれられた長女に続いて46年12月クリスマスを前に、双子んが誕生され、教会員一同大喜びであった。
そして間もなく47年4月徳島県阿南教会へ赴任なさることとなる。札幌時代のあっと言う間の5カ年のご奉仕を終えて、先生ご一家は文字通り北から南への大移動で、私たち教会員は涙の中にお別れすることになった。
在任中前述の通り平岸家庭集会からも多くの方が教会へと導かれ、救われる者が起こされ、着任早々始まった清田開拓も、今日を見据えたお働きであり、主のお導きであったと思う。また熱心な個人伝道で東奔西走しておられたお姿を思い起こす。
教会40年の歴史の回顧、そのひとこまであるが、2代目牧師時代の主の経綸の軌跡を感謝のうちに見させていただいた。「今あるは神の恵みである」
◆第2期無牧時代
2代目牧師鍋島猛師が5年の札幌美園教会の奉仕を終えて去られる。鍋島師は、「わたしにとって青年前期の5年間は新しい世界でユニークなウェイトのある年月であり、『わたしの恵みはあなたに対して十分である』がぴったりの5年間であった」と感謝を述べて、新しい赴任地である四国徳島の阿南教会に赴任された。1972年3月8日(水)小樽より「すずらん丸」で家族7人で出港された。
しかし、残る群れには遣わされる牧師はなく、一年間であるが第二期無牧時代に入る。教会の始まりが信徒を中心にして始まった群れであるから覚悟はできている。群れのスタートに貢献してくださった荻窪栄光教会の森山諭師が兼牧してくださることになった。これは心強い。「モーセの後を引き継いだヨシュア。エリコの戦いの前に、抜き身の剣を持つ司令官が現れた。ならば勝利はすでに決定的である」との森山師の就任メッセージで群れを守り続けて行こうと奮い立った。さらに、求道者も含めて恵みの分かち合いと祈りの10グループを編成し、信徒相互牧会をはかった。
礼拝のメッセージは月一度東京から森山師がおいでくださった。後の講壇は主に役員のS兄が立たれた。祈りとみ言葉の経験の中から生まれた実践的メッセージを物静かに語られ、会衆は恵まれ信仰を堅くした。ホレンコの石川和夫師、ナザレンの久保木勃師、救世軍札幌小隊の伊藤国義師、北光教会の西田進師などの近隣の諸教会からの牧師の応援もいただいた。さらに、関東北教区長で黒磯教会牧師の明石正勝師もこの無牧時期一年間に4度駆けつけてくださった。8月には磐梯聖会に出席したT兄、K兄、U姉、T姉の四名の証しで礼拝が行われたこともあった。
さらに、森山師の再臨待望聖会、異端セミナーがもたれる。森山師は、統一協会に入っていた信者を同伴されて来札。その信者が悔い改め、新生の恵みを受けて、洗礼式も行われた。再臨信仰が打ち込まれたのもこの時期である。平岸、東苗穂、婦人の集まりは証し会である。2人3人集まるところに主もいてくださり、そんな中から7名の方が洗礼へと導かれている。この無牧の1年は、人ではなく神を相手の信仰を築く訓練となった。
◆第3代牧師 金井師時代
「わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす喜び歌い感謝をささげる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み神の家に入り、ひれ伏したことを。」 詩編42・5
1973(昭和48)年4月から81年3月までの8年間が金井由信先生の在任期である。
戦後、53年ころから札幌市の人口は急増し近郊の宅地開発が進んだ。美園も(当時は豊平町)住居を新築し、移り住む人々が増えていた。その一人でもあったS兄姉宅では55年ごろから自宅を開放して家庭集会を開き次第に救いの恵みに触れる人々がふえ、61年(昭和36)キリスト教文書伝道会の巡回牧師・森渓川師のご協力で「単立札幌美園教会」が設立された。そのとき信徒数は34人であった。
さらなる教会の進展を求めて祈り合っていた同年、東京クルセードに出席されたS姉は日本イエス・キリスト教団を知り、霊の一致を覚えて、当時の委員長・道城重太郎師と教区長・森山諭両師にお会いし、62年同教団への入団が決まった。
こうして、当時しもた屋の小会堂に、初代牧師として小島十二師が遣わされ(64年)、二代目の鍋島猛師(67年)の時に美園新会堂を献堂し、72年は1年間の無牧時代であったが、S兄の精進、信徒の結束と遣わされる牧師への祈りと願い、その結実として、73年4月、3代日の金井先生をお迎えすることができたのであった。
金井由信先生は、当時教団本部のCS局長であり、つとに青少年伝道のベテランとして知られておられた。美園教会は、CSから育った若者たちが、よき指導者の必要な時期に差しかかっており、信徒たちもまた健全な教会観による教育と訓練によって、さらにもう一歩前進し、新しい福音の拡大のために、用いていただくための最適の器として遣わされた方と信じた。
金井先生のユーモラスなメッセージは、分かりやすくて楽しいという定評があったが、その一方では私語や、幼児の泣き声が高くなると説教を中断、静かになったころ「牧師は説教に命をかけています。私語はやめ、赤ちゃんは外であやしなさい」と厳しくおっしゃるのが常であった。教会員は、教会生活の中で次第に訓練されていった。各集会は回を重ねるごとに出席者が増し、在職中に平均30%増に、礼拝出席者は2倍の110人を超えた。美園新会堂が、献堂式後5年に満たないうちに、狭くなって、新しい土地を求めなくてはならなくなったのはこのころのことである。
金井先生着任のころは、教会員の郊外移転にともない、住居も広い地域に分散して行った。家庭集会も石狩、清田、東苗穂、旭ヶ丘、平岸、美園とふえた。また石狩にはCS分校が開かれるようになり、それが伝道所に発展し、後には石狩栄光教会(67年4月)となったのである。同じ経過で、清田もCSから伝道所の開設へと導かれ、このことが現在の羊ケ丘教会の献堂に至ったのである。奇しきご摂理によると言わねばならない。
また函舘出身のN兄が北大在学中美園教会に在籍、そのご縁で函舘中央教会が開設(1987年4月)されることになったが、これも金井師のご苦労によって道が開かれ、後に実を結んだのである。
金井師はまた着任いらい、北海道開拓の精神的基盤であった初期キリスト者の活躍に思いを馳せ、本道の霊界に力強いインパクトを与えるべく、超教派的な『聖会』を提案なさっておられた。幸い市内の札幌ナザレン教会の賛同を得て74年7月、両教会共催で「第一回礼幌聖会」が美園教会を会場として開かれた。第二回は札幌ナザレン教会を会場として開催、それ以後、毎年この二教会を交互に会場として主催、2012年で38回を重ねるに至った。この間北海道の福音陣営はもちろんのこと、道内外の教派を超えて、真に再臨信仰に備えての必要なものを満たし続けている。
「見よ、主なる神。彼はカを帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い主の働きの実りは、御前を進む。」(イザヤ40・10)
◆第4代牧師 岩田師時代
ホームページを開設し、インターネットでみ言葉や教会案内を讃美歌や聖歌・写真などと共に知らせている教会がある。一人思い悩む魂に、『世の光となっておいでくださった救い主なるイエス様』を伝える尊い働きである。
岩田牧師の時(1980年代) に、文明の機器を活用した宣教が始められた。「伝道用着信電話」と言われていた「テレホン道しるべ」である。3分間にわたって讃美歌と岩田牧師のメッセージが聞けたのである。 「5日の拡大役員会では、各会の状況報告等がありましたが、電話の愛称を投票で決めることになり、結果『テレホン道しるべ』と言うことになりました。常に真理を指し示す道標としての役割を果たすことが出来るよう御加祷下さい。5月14日設置以来、1日平均16回延456名の方に毎日利用されておりますことを感謝いたします。」(1983年6月12日週報より)
北海道の私たちの群は、羊ケ丘、石狩、函舘、幌向と新琴似に教会を設け礼拝をささげている。美園から枝分かれし、福音宣教を進める礎となったのは、鍋島猛牧師時代の清田伝道に端を発し、岩田牧師の時には、より一層具体的な信徒の奉仕や祈りとなったと言えると思う。 1991年の『主の山に備えあり』札幌羊ケ丘教会献堂記念誌を見ると、清田に土地が献げられ、伝道所を土地付で購入した経緯が述べられている。
「清田のD兄より献げられた教会用地1160坪余りは、諸般の事情から最善の方法にて、6,683,300円で購入させて頂き、完納致しましたので御報告いたします。」(1983年11月13日週報) 教会堂建設へのあゆみが具体的になったのはこのころからである。清田地区の伝道にも一層祈りが注がれた。 「1日(日)の全体伝道委員会で溝田伝道所において、しばらくの間、毎週夜の伝道会を守ることを話し合いました。岩田牧師と信徒は、美園と清田を隔週毎に交換して、説教と奨励を受け持ち、グループが順番に、清田へ奉仕を致します。(以下略)」(1983年5月8日) 「来週より清田伝道所における伝道夕拝が開始され、8つのグループがご奉仕致しますが、6月5日(日)夜はEグループの方々です。(午後7時)バスはやまわ前より(中略)帰りは反対側より乗車、札幌駅まで(東急前)行きますので便利です。奉仕が祝福されるように御加祷下さい。」(5月29日) 美園や北区・手稲方面からも奉仕に駆けつけていたことがうかがわれる。
「5日(日)夜より始まった清田伝道所における第1回伝道夕拝は、Eグループによる証し、賛美、岩田牧師のメッセージで力強く前進致しましたが、新来会者に3名の御家族が出席され、感謝でした。(中略)出席者20名でした。」(6月12日)
「あなたたちが足の裏で踏み込む所は、すべて、あなたたちのものとなり」(申命記11・24が開かれ、1982年6月13日は、清田新会堂建設予定地における最初の野外礼拝であった。現在教会が建っている土地よりやや北で丘の上の方で市街化調整区域のため建物がなく見通しが利くので、遠くからでも十字架が見え教会の存在をアピールできると思ったものである。I家の奉仕でマイクロバスが運行され、ゴザを敷き詰めての礼拝であった。礼拝後、開かれたみ言葉のごとく一同で祈りつつ会堂予定地を踏みしめた。昼食は、持参したおにぎりとエステル会の奉仕による豚汁に舌鼓を打った。野外礼拝は年に1度だったが、その後数年続けられた。
清田地区への伝道は、84年3月に二宮一朗伝道師を迎え一層前進した。清田会堂予定地に札幌市営の廃バスを設置し、CSが始められ教会学校の礼拝が毎週もたれるようになった。
また、85年4月には、石狩に伝道所を購入、5月に開所式を行った。翌年3月には、桑田恭子師が石狩伝道所の伝道師として着任、4月より独立礼拝がもたれるようになった。「あなたの天幕に場所を広く取ら、あなたの住まいの幕を広げ惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。」(イザヤ54・2) 羊ケ丘教会が、北海道地区のセンター教会としての思いを与えられ、新しい教会を生み出す祝福の内にあるのは、ただ主の恵みとお導きによるものである。 これからも、主の前に謙遜であり続ける教会でありたいと願うものである。主の栄光を賛美し、感謝しつつ。
◆第5代牧師 水川師時代
1987年3月、神戸鈴蘭台福音教会より水川武志牧師、登志子師を迎え、清田、石狩、函舘へそして新会堂建設へと新しい伝道の業を進める第一歩を踏み出した。この年の2月教会総会において、石狩は第一種教会として独立することが決まり、桑田恭子先生(現上森師)を中心として32名の会員と2名の客員によって石狩栄光教会が設立されることになったのである。
また、当教会員のN夫妻を中心に本部直轄で函舘中央教会が開設された。このように私たちの教会が母体となって、道内に伝道のみ業が拡大されていくことは大きな喜びであり、主が祈りにこたえてくださったものである。株分けにより、それまで伝道の第一線で戦った兄姉と離ればなれになるのは寂しい思いもするが、キリストにあって一つ、与えられた使命を再確認するよき時となり、お互いの祈りで結び合わされているすばらしさも実感できた。
教会は清田の区画整理のため、準備期間として10年余り市街化に必要な手続きのために努力してきたが、1987年10月第1回の会堂建築委員会をもち、常任委員や設計者の選出をし、本格的に新会堂建設に向けて動き出したのである。その後、設計案を検討し、予算案をまとめ信徒懇談会などを通して、教会員との話し合い、祈りの時をもっていったのである。
このころ、異端から肉親を救出したいという目的で真のキリスト教を学びたいという真剣な求めと願いが起こり、道内各地より集まって礼拝を共に守るようになった。その動きの中で、第3日曜の礼拝後に聖書に照らして教理のまちがいを学ぶ学習会を開いた。教会はこの方々のために温かく見守り、救いにあずかる人が日々起こされることを願い、祈りをもって魂を支えていった。その中で何名かの兄姉が救われた。
1989年に入って美園教会から高橋小織姉(現朝川師)が献身され、感謝である。また、4月からは札幌地区にある4つの教会・伝道所が相互の霊の交わりと励みのため、年1回の講壇交換を行った。さらに、第2聖日を伝道礼拝の日としてこれを用い、各会や各部・聖歌隊などが担当し、賛美や証しの奉仕にあたった。この伝道礼拝の試みは、毎回の礼拝が伝道の即戦力にもなることを改めて実感することとなった。
90年に入っていよいよ新会堂建設に向けての動きが活発になった。年4回の信徒懇談会を通しても、各自が自由な雰囲気で意見を述べ合い、一致して祈り合う時をもってきた。しかし、美園から清田へ移ることで、交通事情やその他人間的な思いや弱さが出てくる時でもあった。新しい産みの苦しみに信仰をもって耐え、祈りをもって乗り切ることの必要を覚えた。揺れ動くときにこそ、新しい魂の開拓と共に、沈んでいる会員の掘り起こし、美園教会の特質といえる信徒の自発的奉仕こそ、新会堂では期待され、また必要といえるのである。
1991年1月27日、美園教会での最後の礼拝が、感謝のうちに守られた。そして、91教団標語「21世紀への福音の挑戦」にぶさわしく、教会員が祈りを重ね、待ち望んでいた札幌羊ケ丘教会としての第1回の聖日礼拝が2月3日にささげられた。翌週には新会堂で建築工事に尽力くださった方々をお招きしての竣工感謝礼拝をもち、主を仰ぎ感謝した。また、5月26日には小山教団委員長、先代牧師岩田師を始め満堂の参列者をお迎えして、献堂記念礼拝・愛餐会・献堂式を持ったのである。さらに、(社会福祉法人)神愛園と合同で会堂用地をささげてくださった故土肥栄四郎兄のけんしょう顕彰碑除幕式も合わせてもたれた。感謝である。
新会堂になってからの新しい伝道がスタートした。聖日厳守、第3週の伝道礼拝・そして祈祷会をポイントにして充実を図った。そして、教会員が奉仕や種々の雑用に追われて、み言葉を聞くことがおろそかにならないように、また礼拝後のプログラムを精選して、家族とゆっくり過ごすことが救いにつながるような配慮がなされた。
定期集会以外にも、1974年から札幌ナザレン教会と合同で毎年一回もたれる札幌聖会、特別集会、北海道にある同じ群れの3つの教会である羊ケ丘、石狩、函舘の信徒が一同に会しての地区聖会、豊かな収穫を期待しての秋の特伝、さらに信徒研修会などを通して、教会員一人ひとりが霊的に高められ、深められることが宣教のために必要であることを再認識できるよき機会となった。わたしたちの務めは、美園・羊ケ丘と受け継がれてきた信仰の原点に立ち返り、聖霊の導きと助けを受けつつ、信仰をもって主のための奉仕や福音宣教の業をさらに進めることである。
◆第6代牧師 小菅師時代
「我が家はすべての民の祈らの家ととなえらるべければなり」(イザヤ・7文語訳)
1993年3月、水川武志先生が転任、東播磨中央教会より小菅剛先生をお迎えした。現在進行形なので作家の言葉を借りるなら、「未来に向けて回想する」ことしかできない。
礼拝-落語のかわりにいい話を聞きに来た、それが礼拝ではないことをわかっていたつもりだったが「礼拝はおささげするんですよ」「献金はわずかですがといってささげてはだめです。精一杯のおささげ物のはずです。自分自身もその献金袋の中に入っておささげしたいという気持ちでおささげしなくては」というメッセージを何度もお聞きし、礼拝中、礼拝堂の外にいた大人がいなくなった。聖餐式もかつては礼拝堂の外に葡萄酒を持ち出したのが、聖餐を受けるのであれば、小さい子どもがいようと礼拝堂の中に入るようになった。形式ではなく、何より祈りを持って、それぞれが礼拝に望むことができるようになったのではないかと思う。
祈り-教会が遠くなって、しだいに祈祷会の人数が減っていったこともあった。なかなか7時というのは働く男性にとって帰れる時間ではないので、役員会で小菅師がどうか役員さんは祈祷会に出席してくださいと言われても、なかなか役員全員がそろうということはないが、毎週とは言わない、でも年に何回か、それすら出られないということはないと思う。
「祈りの家ととなえらるべければなり」と祈祷会で何度も与えられた。役員が自ら時間をおささげし、祈祷会に出席するならば、半週の歩みを終え、祈りの家に帰ってくるならば、教会の中に祈りが生まれ、今の倍の人数で祈祷会を持つことができるのではないかと思った。
内住のキリストー小菅師は礼拝の中で、いろいろ本を紹介してくださった。その中で小島伊助全集を読むと、メッセージで本がわかり、本でメッセージがわかった。我キリストとともに十字架につけられたり。もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」(ガラテヤ2・19,20文語訳)と何度も何度も祈りの中で読んでいくうちに、これが日本イエス・キリスト教団かと、立つべき場所がわかったような気がした。
伝道-「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(Ⅰコリント9・16)小菅師が着任されてから、伝道部にあって準備の悪さ、もどかしさを感じながら奉仕が進められていった。今思うと人に頼ってという思いがあったのではないかと思ぅ。にもかかわらず祝福を与えられたのは、先生、役員、教会員の方々の祈りに支えられていたからだと思う。いくら人を連れてきても、礼拝の雰囲気がおかしければ、求道者は、すぐ察知し、祈りが無くただ義理でというなら来なくなる。また信徒一人ひとりに救われた喜び、内にイエス様を受け入れた喜びを持っていなければ、洗礼を受けたいとは思わないと思う。
今は年間計画に沿って進められているが、持伝では、日々の祈り、持伝前の祈祷会、後の祈祷会に特に力を入れている。
21世妃-数人の信徒の祈りから始まった教会も60年を迎えた。歴代の先生方に育てられ、時には悔い改めの涙を流すときもあったが、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12・9)と悔い改めるところがあるならば、悔い改め「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(Ⅰコリント9・23)とこれからもさらに小菅師にご指導いただいて、歩んでいきたく願っている。